砂漠の花
---------------------------------------------------------------------------------
砂漠の王国ナスタージュ。民を支える柱として滾々と湧き出るオアシスは、太陽の強い日差しを受けて紺碧に輝いていた。空だけはいつも憎らしいくらいに蒼く、明るかったけれど、今この国を支えるもうひとつの柱である王は病に伏せており、王宮内には日々濃くなる死の香りがたちこめて陰鬱としていた。老いた王の回復の見込みは薄く、後継ぎ問題で国は大きく揺れていた。
国王には三人の妻と、それぞれに子どもが一人ずついた。正妻の子は男子で、今はまだ八歳だった。そして第二夫人の子は十八歳の女子で、すでに隣国のジャルーに嫁いでいた。第三夫人は遠い異国からやってきた旅人で、日に焼けた肌を持つ健康的なナスタージュの民とは違い、抜けるように白い肌の、どこか神秘的な女性だった。国王は正妻よりもこの第三夫人を愛し、その子どもは母親似の美しく、賢い男子だった。アルウェ夫人は――彼女は結婚して名前を変えた――十年前に突然王宮から姿を消した。正妻の仕向けた刺客により暗殺されたのだ、とかいう憶測も随分飛び交ったが、彼女の遺体はおろか金の髪の一本さえ、国王は見つけることが出来なかった。
アルウェ夫人の子は今年で十五になる。体が少し弱かったが頭は良く、温和な性格を慕う民も多くいた。何よりその白い肌と金の髪が母であるアルウェ夫人を思い起こさせることもあってか、国王の寵愛を受けていたのだ。
そのため正妻は死の床にいる王が、後継ぎにアルウェの子を指名することを恐れていた。女として、正妻として王の寵愛を一番に受けられる立場でありながら、それを異国の女に奪われ、さらに次期国王の座までもその女の子どもに奪われたのでは堪らない。王妃は国の重役達を仲間に付けつつ、国王の床にぴったりと張り付いては、国王が臨終間際に不用意な言葉を漏らさないよう監視していた。
「殿下。ラズリ殿下」
ラズリ・ナスタージュ。それがアルウェ夫人の子、王の第二王子の名だった。そしてアルウェが失踪した十年前にラズリの守り役となったのがカーゼルだった。普通守り役は王子が生まれたその時から王子の身を守るために仕えるが、ラズリの守り役だった男は、ラズリの母が行方不明になった時に、同じく行方不明になっていた。カーゼルはラズリの二人目の守り役だった。ラズリはカーゼルや他の召使と共に、かつては母と住んでいた緑の離宮で暮らしていた。
「カーゼル、ここだよ」
緑の離宮にはオアシスの水が引かれ、砂漠では珍しいくらいに多くの木々や、草花の緑が見られた。カーゼルは鬱蒼と茂った庭の木々の間を抜けて、声のした方へ歩いて行った。
「殿下。メディナが心配しております。あまり私どもの目を盗んで一人で出歩くのはお控え下さい」
カーゼルは木々の間から覗いた淡い金色の頭にそう呼びかけた。
「もっとも、メディナには殿下を見失う私が不甲斐ないのだと怒られましたが」
カーゼルがそう悪戯っぽく笑って見せると、返ってきたのは何の邪気もない柔らかな笑み。
「仕方がないよ。メディナもカーゼルも忙しすぎるのだ。お前の手を煩わせるつもりはなかったのだけど、ここはつい、時間を忘れてしまう」
ラズリは上を見上げた。釣られてカーゼルも空を見上げる。木漏れ日が眩しく、緑の色は砂漠の民にとって水の色と同じ、渇きを知らない楽園を連想させるものだった。
「お気持ち、分かります」
実際、ここは楽園だ。踏み荒らす者はいない。優しい園の王は、カーゼルの心からの同意に嬉しそうな目を向け、そして諦めたように言った。
「さぁ、戻ろうか。そしてなるべくお前の側を離れないようにしよう」
「そうなさって下さい。私がメディナに叱られないように」
カーゼルはラズリの斜め前を歩いた。常に背にラズリを庇うように立つ。それはこの十年の間にすっかり身についてしまっていた。しかしカーゼルにとってここは楽園だったし、その王はラズリ以外では在り得なかった。ここを守り、ラズリを守り、ずっとここで暮らして行けたら。そう思うカーゼルにとって、病床の現国王は大きな不安の種だった。
そっと溜息をつこうとしたカーゼルだが、離宮に近づくに従って人々の騒ぎ声や、走り回る慌しい足音が聞こえて思わず身構え、背後のラズリに立ち止まるように手で合図した。ラズリはカーゼルの手に従って、カーゼルの背後にピタリとくっついた。
「どうした、騒がしい」
カーゼルは腰に下げた曲刀に手をかけながら屋敷内に向かって叫んだ。するとラズリ付きの女官の一人がその声を聞きつけて長い黒髪を乱しながら走り寄ってきた。
「カーゼル! 殿下は……」
何かを制するように腕を水平に上げたままのカーゼルの側に、女官メディナはラズリの姿を探しながら言った。するとカーゼルの背後でラズリが動き、上げられたままの腕の下からひょっこりと顔を出した。
「いるよ、メディナ。何かあったの?」
ラズリの姿を認めると、メディナは強張っていた表情を一時の間和らげた。しかし周囲の混乱が一層激しくなっていくのを感じてか、また現実に引き戻されたように顔を強張らせた。カーゼルは、メディナのスカートを掴む褐色の手が力んで白くなっている様を見た。ただごとではないと思ったカーゼルがメディナを見詰めると、彼女は口を硬く結んだままひとつ頷いた。
それだけでカーゼルは一気に全身から血の気が引いた。伸ばしていた腕で背後にいるラズリを引き寄せる。するとメディナはラズリに近づき、その手を励ますように握りながらこう言った。
「陛下が……お亡くなりに」
凍りついたラズリに、カーゼルは声をかけることもできず、ただ引き寄せたラズリの体に触れる手に力を込めた。
目の前が真っ暗になった。
すぐに絹の喪服に着替えたラズリの後ろに付き従いながら本宮へ向かったカーゼルは、ずっとラズリの小さな肩を見ていた。
「陛下……」
その場にいた正妻と王子に遠慮してか、ラズリは天蓋つきのベッドに横たわる父王をそう呼んだ。その様子を痛ましく思ったカーゼルだが、たかが守り役のカーゼルは壁際に控えるのが精一杯で、その場でラズリを慰めてやることなどできなかった。同じように壁際に立っている第一王子の守り役が、悲しみに打ちひしがれるラズリに気付かれないようにそっとカーゼルの服の袖に紙を滑り込ませた。
本来王子に付く守り役は相応の地位を持つ軍人がなるべきものである。カーゼルは、今は亡き王の近衛兵ホムスの息子、という身分になっていた。そうでなければラズリの守り役にはなれなかっただろう。アルウェ夫人とともに姿を消した前の守り役は確かに優秀な軍人だった。しかし、カーゼルは違う。違うのだ。
カーゼルはラズリと共に離宮に戻ってから、袖に滑り込んできた紙を開いた。
陛下は跡継ぎのご指名をなされなかった。
お前の役目を果たせ。三日以内に。
星が煩いほどに瞬く夜が来て、離宮の者達は王の死を悼みながら眠りについた。ラズリの部屋ではラズリが寝台に横たわっている。カーゼルは衝立の奥に控えている。これはいつもと同じ。守り役としての役目なのだ。しかし渡された紙に書かれていた役目は、守り役の役目とは違う。跡継ぎの指名がなされなかったとあれば、宦官連中の推薦により次の王が決まる。この国は女王を許さないが、第一王子が国を継ぐという決まりはないからだ。第二夫人に男子が生まれなかったので、王位継承権はラズリと第一夫人の子に限定される。ラズリの聡明さがなければ、十年前、カーゼルが密命を受けてラズリの守り役になることもなかっただろう。ラズリの聡明で、愛される性格が災いしたのだ。
カーゼルは軍人の子などではない。隣国ジャルーから逃れてきた犯罪者の息子だ。父は暗殺者。しかし仕事に失敗して、カーゼルと妹を連れてナスタージュに逃げてきた。ナスタージュでの身分は奴隷と同じだ。しかしどこから情報を得たのか、正妻の手の者がカーゼルを見つけ出した。守り役としてラズリに近づき、王が崩御し次第、ラズリを殺せというのだ。その時にはまだ正妻に男子は生まれていなかった。しかしアルウェの子だけには王位を継がせまいとする、正妻の執念だった。その後正妻に男子が生まれ、カーゼルがなさねばならない役目は重要度を増した。
カーゼルはこの役目に付いたとき、ラズリを愛さまいと固く自分に言い聞かせていた。王は神ではない。時が来れば必ず崩御する。だからラズリを殺すときが必ず来る。役目を果たさねば、カーゼルは殺され、そして妹までも殺されてしまう。父は今まで人を殺してきた報いと考えれば殺されても惜しくない。しかし母のいなくなった後、父のためにと身を粉にして働いてきた妹だけは生かしてやりたかった。妹は、父のしてきたことを何一つ知らないのだ。だから表面だけでは笑っても、決してラズリに笑いかけることだけはしてはいけない。余計な情など、後で自分が苦しむだけだと分かっていたのに。
守り役についてからずっと会っていない妹の顔が浮かび、それがラズリの顔に重なった。カーゼルは胸が引き裂かれる思いがした。しかし手に握った短剣を鞘から抜き、震えながら立ち上がると、普段は許可なしに決して越えない衝立の向こう側へと足を進めた。
お許しを、殿下!
背を向けて眠っているラズリに向けて、カーゼルは白刃の短剣を振り上げた。その時だ。背を向けたまま、ラズリが呟いたのは。
「……カーゼル」
カーゼルは短剣を振り上げたまま身動きできなかった。寝言だろうか。それとも、気付かれたのか。
「カーゼル。そこに居るのか?」
背を向けたまま、ラズリはまた呟いた。カーゼルは短剣を鞘に収め、慌ててその場に膝を付いた。
「はっ、殿下。ここに……」
カーゼルの声が衝立よりも近いことに、ラズリは気付いていないのだろうか。小さな背は少し身動ぎしたけれど、やはりカーゼルに向けられたままだった。気付かれたのか、そうでないのか。どちらにせよ、今日はもう殺しに踏み切ることはできない、とカーゼルは思った。ラズリの声を聞いてしまったから。
「……明日、午前中だけで良い。私を一人にしてくれるね。父上のご冥福をお祈りしたい」
声変わりもしていない高い声が憂いを含み、石造りの冷たい部屋に響いた。決して大きくない声だったのに、カーゼルにはとても大きく聞こえた。
「殿下……私は……」
カーゼルは自分の心臓の音を聞いた。すべてをここで終わりにしてしまいたい欲望が大きく膨れ上がったが、ラズリの言葉がそれを檻のように囲ってしまった。
「カーゼル、半日だけだよ。半日だけ、我慢して欲しい」
「……承知しました」
悲しみに沈んだ声に、他に何と答えられただろう。カーゼルは唇を噛んで俯いた。
「ありがとう。お前も、父上のために祈っておくれ。お休み」
その後衝立の側でカーゼルは眠れぬまま朝を迎えた。会話を交わしてすぐラズリの寝息が聞こえ始めたが、カーゼルに再び衝立を越える勇気はなかった。